moana1203’s blog

日々思っていることを軽く記していこうかと

あと少しで半世紀を迎えるにあたり

 

完訳7つの習慣 25周年記念版

完訳7つの習慣 25周年記念版

  • 作者: スティーブン・R・コヴィー,フランクリン・コヴィー・ジャパン
  • 出版社/メーカー: キングベアー出版
  • 発売日: 2014/08/09
  • メディア: 単行本
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こんにちは。

当ブログにお越しいただきありがとうございます。

 

今日は自分の心の中を綴って見ようかと思っております。

 

文の構成等全く考えておりませんので支離滅裂となることは明白でありますので、そこのところはお許しいただければと思います。

 

ずっと積読となっていた「7つの習慣を」今更ながら読んでいる。

再び話題となった2010年の8月20日初版第65刷発行のものである。

 

2010年…当時は何をやっていたかな…

 

少し話は逸れますが

2010年当時を振り返る前に、当時に至るまでを記してみたいと思います。

 

1990年大学を卒業し、ほぼほぼラグビーの力で形だけの筆記試験、形だけの重役面接をし社会人ラグビー部のある上場企業に入社した。

 

当時は自分のやりたい仕事とその企業は東日本1部リーグ(現在のでいうトップリーグ)に所属しているという条件から、今後の生活に将来に希望に満ちておりました。

 

ただその企業は一般入社、ラグビー入社含め、私の卒業した大学からはOBが一人もおりませんでした。

 

当時はバブル。

 

超売り手市場というラッキーな部分もあり、私のラグビーの実力、大学の知名度では入社試験までたどり着くことができない企業に入社したため、やっていけるのか不安もかなりありました。

 

でも、入社したからには仕事・ラグビーに真摯に向き合い全力を尽くすと強い決意を不安以上にしておりました。

 

しかし大きな挫折にぶち当たるまでにそんなに時間がかかりませんでした。

 

入社4年目、ラグビーで考えると4シーズン目の開幕戦直前の練習で学生時代に手術した足首をまた怪我してしまい、主治医に診てもらった結果

 

「左足首側副靭帯断裂」

 

しかも前回よりも損傷がひどく足首の関節が開きっぱなしになり、歩くだけでも足首がグラグラでした。

 

先生からは現役を続行するならオペは必須だが、完治しても今までみたいなスピードでは走れなくなる。と…

 

当時はラグビーのない生活なんて考えられなかったので、そうなっても構わないから手術を選びました。

 

そして、リハビリを終え現場(職場とラグビー)に復帰したのが約8ヶ月後。

 

状況は一転しておりました。

 

時代はバブルが崩壊し、所属する企業もその煽りを大きく受けており経費削減のためラグビー部の縮小化を図っておりました。

 

ラグビー部の人員削減です。

 

私は見事にその人員に組み込まれました。

 

突然、ラグビー部の部長が所属する課の会議室に呼び出され戦力外通告を受けました。

その部長は言葉を選びながら私を傷つけないよう優しく語りかけてくれましたが、通告を受けた後は目の前が真っ暗になり、心は真っ白になってしまい内容を覚えておりません。

会議室内は私達2人だけでしたが涙が止め処なく流れ、しまいには嗚咽までしてしまったのを昨日のことのように覚えております。所属の職場に戻り、上司に報告するときにも泣いてしまいその日は全く仕事になりませんでした。

 

当時のラグビー界はプロ契約(今でもプロ契約してる選手は少ないですが)ではなくアマチュアスポーツだっため会社を辞める必要はなく仕事に従事することはできました。

でも自分で選んだ引退ではなく、突然やってきた選択の余地のない自分の現状を受け止めるには、私は未熟でした。すぐにスイッチを切り替えることができませんでした。

所属する職場の部長からは

ラグビー辞めれて良かったじゃないか。これで仕事に一本に打ち込めるな!」

と言われましたが、私の存在価値というものが損なわれた感が強く仕事に対して正面から立ち向かう事ができませんでした。

住まいはラグビー部寮だったのですが、一般社員の方もその寮にいたため寮を出る必要もなくそこから通ってもよかったのですが、とても居づらく逃げるようにして退寮し、小さなアパートに移って新たな生活を始めました。

 

そこから弱い私は転落の人生に向かっていきました。

 

なにをするにも気怠く、無気力で一日一日をやっと生活している状態でした。

夜も眠れなくなり寝付けたと思うともう起きなくてはならないという日が段々増えていき、挙句の果てに起きたら出社しないといけない時間、要は寝坊です。その回数も増え自分は人並みの、いや人間として最低限の事もできないのかと、情けなく思いながらもそれを改善する事ができませんでした。

そうこうしているうちに身体が全く動かなくなり布団からでれなくなったのです。

そして

無断欠勤…

26歳のいい大人がです。

もう何も考えられませんでした。テレビを見るわけでもなく本を読むでもなく、鳴り続ける電話に出れるわけもなく、ただただ布団の中で過ごしご飯もほとんど食べれませんでした。そんなことを10日も続けた後、やっと出れた電話がラグビー部の部長からでした。

「俺の休みの日にお互い私服で何処かの喫茶店で話をしよう」

とのことで、重たい身体をやっとのことで動かし約束の場所にに行き、色々話したのですが恥ずかしながらそこでも涙が止まりませんでした。

人前で…

 それでも部長は私が落ち着くまでずっと待ってくれ、最後に

「すぐにとは言わない。元気になったら職場に復帰しよう。俺からお前の部署に伝えておくから。それとお前が希望するなら転属もできるようにしてやる」

と、折角のお休みの日にこんな私に言葉をかけてくれました。

 

その言葉は今でも覚えているのですが、どのようにしてそこの場所に行きどうやって帰ってきたのか全く覚えておりません(苦笑)

あれは幻だったのではないかと今でも思うことがあります。

 

それから職場に復帰し異動シーズンになり、当然のことながら私は異動の通達がありましたが、若干部長との話が違ってました。確かに希望する職場といってもこんな無断欠勤した人間を受け入れる部署はそうそうあるはずもありません。

 

本店から支店に移動となりそれなりにスイッチを切り替えられたと思っていたのですが移動後、3年目の夏以降からまたおかしくなり、身体が動かないばかりかケアレスミスが異常に多くなり書類も提出期限に間に合わなくなることが多々ありました。

極めつけは支店ゴルフコンペで景品担当を任され、翌日のコンペのため会社から景品を自宅に持ち帰る際、電車の網棚に載せた景品を見事に忘れてしまい、それを気づいたのが終電もとっくに終わった深夜。保管駅まで車で取りに行く始末。

コンペ当日も起きたらもうスタート時間…

また寝坊です。

そこで私の中で何かが完全に弾けてしまいました。

体調不良と嘘の報告をゴルフ場に連絡し伝言してもらい景品だけはゴルフ場に持参し、逃げるように帰ってしまいました。

 

そして30歳を迎えた、1997年12月31日付で退職いたしました。

 

今から約19年前。

その時代は「うつ病」というものは今ほど認知されておらず、また私自身うつ病と疑ったことも全くありませんでしたが、今思えばラグビー部を退部した時からおかしくなっていたのかもしれません。

 

恥ずかしながら、私は現在もうつ病の治療を受けております…

 

殴り打ちしている間にかなりの支離滅裂な長文となってしまったので、また次回にでも記していきたいと思います。

 

 

 

最後まで読んでくれた方へ

貴重なお時間を割いて読んでいただき、誠にありがとうございます。

こんな私ですが今後ともよろしくお願い申し上げます。

 

 

完訳 7つの習慣―人格主義の回復

完訳 7つの習慣―人格主義の回復

 

 

 

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